青い目をした彼女が攫う
やはり恩は感じます。
親は好きじゃないけど、いじらしく思い、嫌いになれない自分がいます。愛しています。
「育てて」なんて頼みません。でも、しおれた花には水を与えます。それが庭ならなおのこと、近所の視線も助けます。
無自覚に、言うことがよくかわる、かわいいお母さんのこと。とれと言われたからとって、返せと言われたら、わたしは返すしかなくなっちゃう。
金を使えば、罪。金を貯めても、罪。もし、進学できていたら、と思うたびゾッとする。
母の感情は氷柱。背中をなぞる。なじられる。そのたび死んでく。教育は、洗脳だ。昨日も明日も、私の脳だけが生きていく。はすっぱと、それからルンペンが、わたしの進路に小石ばかりまく。
いずれ結婚できたなら、私は間違ってなかったと思える。その時は、思い描くいい親になりたいと思う。
好きが最後か始まりか
やはり、自分を理解してくれる また、理解しようとしてくれる そういう人は大切だと思うし、大切にしなくてはならないと私は思う。さらに言えばそれに漬け込まず、たとえ誰かが理解してくれたとしても、常人から外れていると自分でもわかっているのなら、治すべきだし、治せなくても、努力すべきだと私は思う。
節目、節目に自分を変えて、その人だったり、その環境にあわせようとしそのためなら古い自分は消していく。見たくない認めたくないそんなものは捨てる。
この人ならどんな過去も受け入れてもらえるのにわかっていながらも怯えてしまって、よくないことだとわかっていながらも、結局嫌われるのが怖くてたまらないから捨てられるのが怖くてたまらないから自分を捨てる。
信じているし信じてもらえているのに、どこかで信じていないのは私の方でしかない。
まな板の上で君と
わたしたちは生きかたを知らない。産まれてから生きていくうちに見つけていくものだと思っている。趣味というのが、より近く、それかもしれない。知らない生きかたを見つけるために趣味をしているのかもしれない、少なくともわたしはそうである。生きかたに迷うと本を読む。目につくものをかたっぱしから読む。小説には生きかたのヒントが隠れているとわたしは思う。無いと言われても見つける。わたしは21年間生きてきて学んだことが(少なくとも)1つある。小説は生きている人が書く。生きている人が書いたものの中から生きかたのヒントが見つけられるんだから、生きかたとは、死ぬまでにはわかるものなのかもしれない。ということだ。
お砂糖天国
ばら撒いて回してくっつけて、ふわふわになる。舌で舐めればきらきらひかり、つぶすと薄くかたくなる。表も裏も、なんなら中まで真っ白で、あんなに軽いのに甘い香りを放つそれを少しちぎって口へはこぶ。色のイメージといえば、緑のものは苦い、黄色のものは酸っぱい。赤いものは甘い、桃色は香りだかい。白のものは淡白な味。そんなふうに抱いているのだけれど、これは別だ。雪より温かくって飴より柔らかい。舌に広がり柔らかくほどけていく砂糖が唾液と絡み、その甘ったるさがねじれた脳みそをびりびり刺激する。砂糖が結晶なんだからわたがしだって結晶かもね。一度、顕微鏡で見てみたい。
血管熱戦トピックス
赤と青と白、目の上に腕をおくと黒い背景の中に現れる。数十年生きていてこれは血管だと思っていたがあながち間違いでもないらしい。検索していくと「血管の残像」ということが書いてあった。ほかにも、「直前に見ていたものの感覚」だったり、「圧力のかかった網膜による光の錯覚」だとか。どうでもいいけど私はこの現象がお気に入りだ。オーバードーズを嗜んだ時に広がる脳内の背景のような光景が目の裏に写り、そのチカチカは水面を進む黄色いがあがあアヒルのように気のままに流れていく。それが非常に癒されるし、水をはりアヒルを浮かべる手間も無くただ目を閉じ腕をおくだけで得られるのだから安いものである。
生きていると悩みがつのるばかりで眠れなくもなるが、眠れない時に見られるこの情景が私の宝物でもあり大切なひと時である。
嫌いがする大好き
ぱちぱち 細かい音で目が覚める。今日はあいにくの、雨。小粒のしずくがフロントガラスを叩いていた。線香花火の夢をみたのはきっとこの音のせいだろう。
ワイパーに追いやられたしずくは、半分は窓の隅にたまりLEDの赤を取り込む。その赤さといったら、鮮血のしぶきをも連想させ、なんとなく身体がこわばるのを感じる、かと思えば鮮やかな緑に変わって私を安心させる。一方でたまりそこねたしずくはといえば、風により左下へアーチを描いて流れていくので、暗闇に反射するプラネタリウムをよりきらめかせる。もう半分は車体をすべりながらアスファルトへ落ちていき、コンクリートに夜空を作り、通行人の足元をぬらす。
エンジンと水たまりをはねる音だけが響く落ち着いた繁華街をぬけていく。空だけがせわしない。私は雨のふる日の夜の車内が大好きだ。